文学フリマ2

 「モスコミューン出版部」さんの「KLUSTER」は、ちょうど「凡TIME」の2つ隣で売っていたんだけど、はっきり言って規模が違うというか。もうはじめっから負け戦かよ〜、みたいな。まあ当たり前なんだけど。と言いつつ、私も一番に狙ってたんだけど。コピーの方はうかうかしてる間に売りきれちゃったけど、製本された立派な方はもちろんゲットしました。

 で、やっぱ最初に読むのは、東氏インタビュー。前半はおたくっぽい話というか、正直ついていけないところもあったりしたのだけど、まあ私がゆうゆのコスプレに萌えるのもどうかと思うし…。
 でも、J文学以降の文学についてのあたりから俄然勢いづくのであって、やっぱり東さんは発言が面白い人なんだと思った。いや別に著作が××という意味ではなくて。こう、反論しはじめると元気になるというか、動的な論旨展開をする人なのだな、と。

 インタビューには、ある論点を掘り下げるために直に話を訊くという場合と、とにかく言葉を引き出してみるという場合の2通りあるが、このインタビューは明らかに後者。で、これには言葉を引きだす側の直感力&反射神経の鋭さと、言葉を発する側の引きだしの多さ&深さが勝敗の分かれ目になる。その意味で、このインタビューは、かなり面白い。

 ところで、「萌え」って言葉はやっぱり気になる。この言葉は、評論の世界から過剰な説明を削ぎ落として、体感的・実感的なそのままをくり抜いた示唆深い言葉遣いであるのだけど、半面、(なんかフェミニズムっぽくて嫌な言い方だけど)♂→♀みたいな視線の一方向性が暗黙的にある。というか、現象としてはむろん双方向なわけだけど、言葉として象られたそれは、往々にして一方向的で窮屈な感じがしてならない。この言葉のナマっぽさもきっと一因なんだろう。実感できない者には半分しか理解できないという類いの言葉である。

 にもかかわらず、文字面で捉える「萌え」って、例えば♀である私が読んでもわりとすんなり入ってしまう。♂が言ってる「萌え」を♀に置き換えて…じゃなくて、全く段階を経ることなくスルっと入ってきてしまう。けど、それはやっぱ丸呑みしてるだけの話であって、いつか消化不良を起こしてしまう。「性差」はあるのだ。実感として。そこは決して、飛び越えちゃいけないと思う。思うんだけど…。どういうわけか頭の中は性別がごちゃごちゃになってしまっていて、バーチャルな♂を生きているような感覚もどこかにある。分かった気になっているだけなのかもしれないけど、その気になれば距離感なく♂と同列になれる(ならないけどね)、という感覚がある。それ自体がもう立派な幻想というか妄想なはずなんだけど、それを妄想として取りだすロジックって、あるのかな? フェミニズム的なアプローチではなく。

 なんてことを思っていると、東氏が女性作家についてのコメントを控えることというか控えざるを得ないことって、すごく残念な気がする。

 ともあれ、このインタビュー冒頭のおたくな会話っていうのは、どうにも象徴的というか、図らずも「萌え」の体感的な差異(性差)を導入部分でちゃんと自覚させてくれるという意味では、非常に興味深かった。

 …ん〜、書いててもまるで訳わかんなくなってきたので、このへんで。