「フリージャズの原点」と薦められて買った、PETER BROTZMANN『machinegun』。1968年…ってつまり、(ほんの少しだけ)私が生まれる前に創られた音。管楽器×3、ピアノ×1、ベース×2、ドラム×2という構成。音量を上げて聴くように、と忠告されたが、さすがに昨今の住宅事情ではそれもかなわず、比較的ボリューム絞りめで聴いてみたのだが、それでも阿呆みたいにうるさい。展開も読めない。でもむちゃくちゃというわけではなくて、衝動的なわけでもなく、確信犯的に型に落ちることを避けているというのが、よく分かる。だから、ノイズによる刺激という意味でも、インパクトを取り除いたところに見える音の絡み合いという意味でも、非常に面白い。

 …ただ、聴き通すのに体力要るんだよなあ〜、これ(苦笑)。買った時にも中ジャケの写真のあまりにもタフな悪役顔に笑ったものだったが、確かに相当タフなワルじゃないと、こんな意地悪な作品、つくれないだろう。まさに究極ですな。

 で、何となく思ったのが、電気を通した轟音は向こうからぶつかってくるというイメージなのに対し、管楽器をはじめとするナマ音の轟音って、絡みついてくるというか、ぐるぐる卷きにされるような感じがある、ってこと。ギターとかシンセのノイズって、音を下げたりなんかして衝撃を弱めればダメージは減るんだけど、管楽器が絞り出す轟音からは、どうやったって逃れられない。やはり空気とともに吐き出すからだろうか? あの音圧には、どうしようもなく殺られてしまう。阿部薫もそんなイメージだ。半面、場面によっては息苦しくなったりすることもあるわけで、UAのライブなんかで時々窮屈さを覚えてしまうのは、その好例だろうと思う。もっとも、こちらは単に私自身が管楽器の音に普段からあまりなじみがないからそう感じてしまう、ってことなのかもしれないけどね…。

 さて、明日からサマソニ2日間。ゲートオープンからがっつり見届けてくる予定。体力持つかな〜。どこかでくたばってる私を見たら、麦酒1杯でもおごってくださいね。